ロシア留学体験記(モスクワ)

        経済学部3年 猪子達弘

 私がなぜロシアのサマースクールに行ったのかという話から始めます。漠然とサマースクールというものに行ってみたかったので、大学2年生の時に英語のサマースクールの情報の収集をしていると、中高生向けのものが大半でした。英語のサマースクールは大学生向けではないと考えて、それなら自分の第二外国語であるロシア語のサマースクールに行こうと思いました。それからロシア語のサマースクールに行くために最低限のロシア語知識を真剣に頭に入れていきました。

 3年生の前期が始まってから、どのようなサマースクールがあるかを知人や教授に聞いたりインターネットでロシアの大学のホームページを見たりして情報を集め、どの大学のサマースクールに参加するかを決めました。

 申し込みをする大学を決めて、自分で大学のホームページの申し込みフォームから申し込みをして、ロシアの大学からビザの取得に必要な招待状を送付してもらいました。招待状を受け取ってから招待状をもって、ロシア大使館に行きビザの申請をしました。ビザを取得したら航空券を確保してロシアに行き、大学までたどり着き大学の窓口でサマースクールの参加手続きをしました。

 ここまでは順調でしたが、入寮時にトラブルがありました。私の使用する予定のベッドの上に、前にその部屋にいた人の荷物が大量に置いてあったのです。部屋の人に話を聞くと、前に居た人が荷物を置いたまま大学から出ていったそうです。荷物の処理方法について受付の人に聞きに行くことにして、あることに気がつきました。「この状況の説明をロシア語ではできない」と。

 1度目は何も持たずに行ったので、ロシア語では何もしゃべれず、「ちゃんと部屋に入れ」と受付の人に言われ、そのまま部屋に戻り、辞書、指差し会話帳、ルーズリーフ、ペンを持って2度目に挑みました。2度目はルーズリーフにロシア語で「ベッドの上に荷物がある」と書き、色々しゃべっていると英語が多少できる職員の人が登場したので、英語で詳しく説明すると、「部屋の定員は5人で、貴方は5人目だから、その荷物は4人目の人のものだよ」と英語で言われ、部屋に戻って部屋の人に聞くと「あの荷物は出ていった5人目の荷物で、今君は5人目だよ」と言われ、3度目となる受付に戻りました。

 3度目には「私は6人目だ」とロシア語で書いた紙を受付に見せて、受付の人としゃべっていると、受付の人がどこかの部屋の番号を書き、ロシア語で何やらしゃべっていました。受付の近くに英語がしゃべれるサマースクールに申し込んでいる人がいたので、ロシア語を訳してくれて、「この部屋に日本人がいて、日本人に助けてもらえ」と英訳してくれました。その部屋に向かい、日本人の人に理由を説明して一緒に受付まで行ってもらえないかと頼むと、快諾してくれて4度目となる受付に向かいました。

 事の経緯を日本人の人に通訳してもらうと、受付の人は「あなたの部屋は日本人の人たちと同じ部屋になった」と言い放ちました。私たちがぽかんとしていると、受付の人は私の仮学生証の部屋番号を日本人の人たちの部屋番号に書き換えて、仕事は終わったかのような空気を出していました。私は部屋が変更になり確定したので、その場で日本人の人と挨拶を交わし、荷物を日本人の人たちの部屋に移して解決しました。この事から、自分がロシア語でコミュニケーションをとれない事と、ロシアの事務職員のテキトーさを学びました。

 受付をした次の日にサマースクール生の入学式(ロシア語で何を言っているかわからない)があり、終わったら希望するコースにわかれてクラス分けテストがあり、テスト結果から自分のクラスが決まりました。私の希望したコースは下から2番目で、クラスは下のクラスでした。

部屋から見た景色
部屋から見た景色
入学式の様子
入学式の様子

 サマースクールの授業内容は、基本的な文法の確認と、その時間に習った文法を使って同じクラスの人と話すことの繰り返しで、日本の中学高校でやるオーラルコミュニケーションの授業に文法の解説を加えた感じでした。

 トルコ、フランス、イギリス、チェコから来ていた人がクラスにいました。休み時間の雑談はみんなそこまでロシア語ができないので英語で会話をしていました。授業中に英語で話していると、「ロシア語で話そう」と先生に言われて、ペアの人と教科書や辞書を使い四苦八苦しながら話していました。

 授業でロシア語も英語もできない人がいると、コースが下から2番目で1番下のクラスであれば丁寧に教えるのでしょうが、先生が「私はどうやってあなたにロシア語を教えるの!?」と怒っていました。

 授業は週4日で水、土、日曜日が休みでした。観光はその3日間にしていました。バイタリティーがすごい人は、授業が15時半に終わるので、その後に観光したりしていました。

 モスクワでの観光の足は地下鉄でした。モスクワの地下鉄は、5分に1本は電車が来て、観光地の近くにはたいてい地下鉄の駅があり、Suicaのようなものもあり便利でした。地下鉄の欠点は走行中の騒音がうるさいことぐらいでした。

 私のモスクワでの休日の話で欠かせない人は、ルームメイトの西田さん(仮名)です。彼は2014年の4月から1年間の留学でモスクワに来ていました。モスクワに来て半年たっていて、2013年にもサマースクールでモスクワに来ていたため様々なことを知っており、色々なことを教えてくれました。

 西田さんの1番のお勧めのアクティビティはサーカスでした。ロシアはボリショイサーカスが有名ですが、他にも面白いサーカスはあるということなので、ニクーリンというサーカスを見に行ってきました。普段サーカスは見に行かないのですが、ニクーリンは楽しかったです。動きを見て楽しむサーカスはロシア語の知識が乏しい私でも楽しむことができました。

ニクーリンの入口
ニクーリンの入口
ニクーリンの舞台
ニクーリンの舞台

 私が一番面白かった博物館はウォッカ博物館です。西田さんともう一人の日本人の方と3人で行きました。展示物はロシアのウォッカの歴史、作り方、色々な種類のウォッカの展示、ツアー形式でおば様が案内と解説をしてくれます。最後に7種類のウォッカと2種類の果実酒を、おつまみ付きで飲むことができます。博物館の案内をしてくれたおば様が給仕と一緒に、ウォッカの飲み方の解説をしてくれました。ウォッカのあまり酔わない飲み方の説明は、博物館のどの展示物の解説より詳しかったです。ただ給仕のスピードがロシア人基準なので日本人にとっては早く、思っていたよりすぐに酔ってしまいました。

ウォッカ博物館の外観
ウォッカ博物館の外観
ウォッカ博物館の中にあるカウンター
ウォッカ博物館の中にあるカウンター
ウォッカのおつまみ
ウォッカのおつまみ

 食事については、モスクワにはレストランとカフェがあり、レストランが高級レストランでカフェが庶民食堂みたいな感じでした。食事に関して、モスクワはソ連時代の首都のようなものだったこともあり、旧ソ連諸国の食文化が入ってきているし、西田さんが食事処の情報をまとめていたものをもらったので、食事には困らなかったです。部屋で簡単に食べられるものはカップ麺でした。モスクワでは様々なカップ麺が売られており、東洋人向けのカップ麺は割とおいしかったです。

 モスクワで手軽に食べられる日本食は、うどんです。丸亀正麺がモスクワに10店舗ぐらい出店しているので、日本食が恋しくなった時は食べに行っていました。

 実際に食べておいしかったのは、ブリヌイ、ラグマン、ボルシチ、アイスクリーム、サムサ(パンの中にヒツジや牛の肉を詰めたもの)、ハルバ、シャウルマでした。

丸亀正麺の豚骨うどん
丸亀正麺の豚骨うどん
イクラのブリヌィ
イクラのブリヌィ
ラグマンというスープヌードルと羊肉のカレー煮
ラグマンというスープヌードルと羊肉のカレー煮
ボルシチ 野菜が主体のものと肉主体のものがある
ボルシチ 野菜が主体のものと肉主体のものがある
ハルヴァは日本の乾菓子のようなものから写真のチョコバーの様なものがある。 チョコバータイプの方がおいしかった
ハルヴァは日本の乾菓子のようなものから写真のチョコバーの様なものがある。 チョコバータイプの方がおいしかった
シャウルマは肉、野菜、調味料を生地で包んで食べる。生地はクレープ生地の厚めのようなもの。
シャウルマは肉、野菜、調味料を生地で包んで食べる。生地はクレープ生地の厚めのようなもの。

 お土産を買うときに興味深かったことは、モスクワでのお土産屋は安いもの以外は、大体適正価格は表示価格ではないことでした。西田さんに付き合ってもらってモスクワの有名なお土産屋さん通りにいった時に、西田さんの値段交渉により、その通りのお店の表示価格の7分の1で琥珀のコップを入手しましたが、地元の人が行く様な琥珀製品のお店の表示価格と比べると、私が買った価格より多少高い程度でした。お店によりますが、値段交渉をすると、大体すぐに表示価格の2分の1にはなりました。そこから粘るとどんどん安くなっていきますが、お店もここまでは値引きができるラインのようなものはあり、一定程度値段が下がるともう下がらなくなります。ロシア語力が値引き交渉では必要とされるので、筆談で値引き交渉ができるかわかりませんが、もし私がやる場合は筆談で交渉したか、英語のできる店員を探して交渉したでしょう。

 お酒のお土産は、グルジアのキンズマラウリという甘めの赤ワイン、アゼルバイジャンの赤ワインとウォッカを何本か買って帰りました。ウォッカはスーパーに、日本のスーパーの日本酒の品ぞろえぐらいのものがあり、種類が選べるので、名前がロシアを想像できるものを買っていきました。

 治安に関しては、私は危ない目にはあいませんでした。あまり夜に出歩かなかったことや、私が男性という事、交通機関を使うときは常にスリに注意していたことが要因だと思います。ルームメイト曰く、ロシアはスリが多いらしく、財布や携帯電話は油断しているとスられるそうです。

 ロシアにサマースクールで行く注意点としては、

1、ルーブルをある程度持っていくこと。

2、絶対にパスポートを携帯して外出すること。

3、行く大学の近辺の地理はできるだけ調べておくこと。

4、観光の情報誌は何か持っていくこと。

 1に関しては、到着時間によっては両替屋が閉まっていて、初日に買い物ができないことがあるからです。初日に色々買いたい人は、ロシアに行く前に日本でいくらかはルーブルを入手しておきましょう。2に関しては、パスポート不携帯だと警察に連行されて、周りに迷惑がかかります。実際に赤の広場で観光客が警察に連行されていく姿を見ました。3と4に関しては、情報は大切だということです。スーパーや駅の場所をあらかじめ調べておけば効率的に動けますし、観光地の情報がないと、いざ観光しようとしてもどのように動けばいいのかも分からなくなります。

 簡単に良かった点と悪かった点をまとめると、良かった点は西田さんや他の日本人の方々との出会い。語学の面では、実際にロシアに行くことで自分のロシア語の欠点が明確に見えてくる点。海外に行くこと全般に言えますが、自分の価値観とは違う価値観を体験できた事です。悪かった点は最初の受付ともめたことですが、あれがなければ日本人の方々とは出会えなかった点では、私にはプラスになりました。


ロシア留学体験記(サンクト・ペテルブルグ)

        文学部2年 小田切優穂

 私がロシアへ留学に行きたいと考え始めたのは、まだ大学に入学して間もないころでした。当時は具体的な場所や時期も決めていた訳ではなかったのですが、留学が無理ならばまとまった期間の旅行でもと考える程に、とにかくロシアへの漠然とした強い気持ちだけがありました。一年生の秋ごろには翌年の夏に留学に行くことを決めて、ロシアの留学についてインターネットで調べたり、先生に留学のことについて質問をしたりして、ホームステイでサンクトペテルブルク大学の聴講生として、ロシア語を学ぶ外国人専用の分校へ通うことにしました。期間は日本の大学の夏休みの間に収まるよう、渡航時間も含めてちょうど30日間にしました。留学先の大学の場所は、首都であるモスクワか、それとも旧都のサンクトペテルブルクにするのか、これは留学を決めた後も随分悩みましたが、私はサンクトペテルブルクを選びました。理由はいくつかありますが、ひとつは単純に費用が少し安かったことと、もうひとつは街そのものが博物館であると言われるほどに美しく文化的であり、私がロシアで訪れたいと考えていた場所の多くは、サンクトペテルブルクにあったからです。

 私は旅行会社を経由して留学したのですが、それは私が海外へ行った経験はおろか、国内でも一人で遠出をしたことがなかったという大きな理由がありました。国外で過ごすという経験の無い自分ですべて行うよりも、多少のお金がかかっても確実に準備ができた方が良いと考えたからです。現地に着いたときの案内や大学での手続き、携帯電話の購入は付き添いの方が一緒にしてくれたため、とても助かったことを覚えています。

部屋から見える景色
部屋から見える景色
ゴーゴリ像前の古本市
ゴーゴリ像前の古本市

 初めて大学を訪れた日は、サンクトペテルブルク大学の聴講生として留学の手続きをし、クラスを振り分けるための文法のペーパーテストを行いました。そののちに軽い面接などを行い、最終的な振り分けがされます。私は語彙の少なさと話すことがほとんどできなかったことのために、初級の文法を学ぶクラスになりました。範囲としては大学の授業ですでに習っていたのですが、自分で自然に読み書き・話をすることや、活用などを瞬時に理解することは、難しく感じました。しかし、感覚として基礎的な文法を覚えることができたことや、細かいニュアンスや言葉の区別を学ぶことができて良かったと思っています。また、教科書は外国人向けですが説明もロシア語で書かれているため、読むだけで十分ロシア語の力が身につくと感じました。

 大学では平日すべてに90分の授業が2コマずつあり、ロシア語でロシア語の授業を行いました。細かい説明や生徒が分からないと感じたことは英語で話したりしたのですが、基本的にはロシア語で考えて学ぶことを目指していたように感じました。はじめのうちはどうも頭が痛くなってしまい、授業が終わるととても疲れていたのですが、三日もすればその環境にだんだん慣れてしまいました。授業は原則として同じ先生が行っており、進み具合も早く感じました。授業の内容は受け持つ先生によって大きく変わり、ロシア語で自分で言葉を作り話すことを重視する先生もいれば、テキストに沿って文法を学び、そのテキストにある語彙に関連する言葉を覚えさせてくれる先生もいました。たいていの先生は授業の最後に課題を出すので、その日のうちに私は予習と復習、課題を行っていました。

 授業において大いに役立ったのは、ロシア語の電子辞書です。ロシア語で授業を行う中で板書する際に、分らない単語をひとつひとつ紙の辞書で引くのは時間がかかり、先生の説明が聞けなくなってしまいます。私は電子辞書を授業中に使うことで分らない単語がすぐに何であるか調べることができ、効率よく授業を受けることが出来ました。せっかくロシアに来ているので、耳でロシア語に慣れてみるのも良いのではないかと思います。紙の辞書は家で細かく単語の意味を調べたりすることに役立ちますが、必ず必要ということはないでしょう。ただ、どちらも留学の際にあるととても便利だと思います。一つのクラスがだいたい10人以下の少人数で行っており、大学に在籍しているのは中国人と韓国人が圧倒的に多いのですが、私のクラスにはイタリア人が最も多かったです。日本人も在籍者としては20数名ほどいたそうですが、モスクワにはずっと多くの日本人が留学していると、ある日本人留学生から聞きました(モスクワ大学では9月の授業開始に合わせて、100名近くの外務省経由の日本人留学生が来たそうです)。同じクラスの留学生とは、英語とロシア語交じりで話したりしていました。

 私は午前中に授業があったため、午後からは自由な時間となっていました。それだけでなく約一か月間も滞在をしていたため、観光に十分な時間がとれました。8月のロシアは日が落ちるのがとても遅いので、施設の閉館まで滞在していてもそれほど問題にはならなかったです。私は血の上の救世主教会など有名な宗教施設を巡りましたが、最も多く訪れたのは、博物館や美術館でした。それまで本の中でしか見られなかった絵や資料を実物で見られたことが、とてもうれしかったのを覚えています。留学の大きなメリットとしては、観光をするだけでその土地の言語に触れていられることである、と私は思います。例えば、バスの移動や地図の確認、スーパーでの買い物や博物館などのキャプション、道にある看板、日本では見られないような珍しいものでは、街の道路に書かれている数多くの広告――違法だそうですが――など、現地で見聞きするものは、全てにおいて語学の学習に役立つものです。初めは食事をするために外で買い物をしたり、レストランに行くことも苦労していましたが、帰国直前ではペテルゴフの水上バスのチケットの購入や時間の確認など、自分で出来ることがとても多くなっていました。

血の上の救世主教会
血の上の救世主教会
ペトロハヴロフスク聖堂
ペトロハヴロフスク聖堂
スモーリヌィ聖堂
スモーリヌィ聖堂
道路にある広告。ペテルブルクのあらゆるところにあります。
道路にある広告。ペテルブルクのあらゆるところにあります。

 この留学で一番大きかった出来事は、同じ日本人留学生とロシア人の女の子と3人で、モスクワまで4日間の弾丸旅行をしたことでした。寝台列車で車泊をしたため、モスクワの滞在は1泊2日です。列車のチケットの日付が間違っていて次の便の列車に乗ったり、予約したホテルの場所に行くと、建物が断水したらしくそこにホテルがなかったりと、最初から最後までトラブル続きだったのですが、それがまた面白かったです。ホテルはネットで簡単に予約ができるので、留学中に別の都市へ旅行に行くのも良いかもしれません。大学での授業も楽しかったのですが、私は時間さえあれば観光や旅行をしていたために、そちらの思い出のほうが強く印象に残っています。人に道や場所を聞いたり、見知らぬロシア人と話したりと、ロシア語を使わなければ困るという状況は、思ったよりもとても楽しいものでした。

モスクワ行の寝台列車。床になっている部分をひっくり返すとテーブルになります。
モスクワ行の寝台列車。床になっている部分をひっくり返すとテーブルになります。
赤の広場では、お祭りをやっていました。
赤の広場では、お祭りをやっていました。
トレチャコフ美術館の新館。モスクワに来たのはここへ来るためでした。
トレチャコフ美術館の新館。モスクワに来たのはここへ来るためでした。
モスクワ、アルバーツカヤ駅前。モスクワはペテルブルクよりも町の規模が大きく、ビルが多く立ち並んでいました。
モスクワ、アルバーツカヤ駅前。モスクワはペテルブルクよりも町の規模が大きく、ビルが多く立ち並んでいました。
エカテリーナ宮殿のピョートル大帝の間。ここは学生が無料で入れます。
エカテリーナ宮殿のピョートル大帝の間。ここは学生が無料で入れます。
ルミャンツェフ邸のサンクトペテルブルク歴史博物館
ルミャンツェフ邸のサンクトペテルブルク歴史博物館

 ロシアの食事は、校内にあるカフェでパンを食べたり、サンクトペテルブルクでは町じゅうにあるスタローバヤという食堂や、カフェ、レストランで済ませることが出来ます。最も安いのは校内のカフェですが、レストランではロシア料理やグルジア料理など、色々な種類の料理を提供している店がありました。一番印象に残ったのはネフスキー通りにあるソビエト時代の家庭料理をコンセプトにしたレストランでした。というのも、料理が運ばれてきた時、一緒に出された凍った小さなグラスには、ウオッカが入っていたのです。とても素敵なおもてなしでした。ロシアのレストランは日本のレストランの様な感覚とは少し違っていて、どの店もある程度の値段より高い店が多いです(私の行ったところは安くても600ルーブルはかかりました)。なので、もし食事を安く済ませたいのであれば、学内かスタローバヤ、カフェに行くか、お弁当を作るといった工夫が必要になると思います。また、飲み水はスーパーやマガジン(コンビニの様なもの)で、炭酸の入っていないものを買っていました。

フィン風シシーと黒パン、ピロシキとウオッカ。
フィン風シシーと黒パン、ピロシキとウオッカ。
お店の内装。音楽もかかっていて、とてもいい雰囲気でした。
お店の内装。音楽もかかっていて、とてもいい雰囲気でした。

 交通機関は、地下鉄とトロリーバスやトランバーイ(路面電車)、マルシュルートカ(小型の乗り合いバス)があります。ペテルブルクの地下鉄はジェトンとよばれるコインを買うことで乗れ、その他の乗り物も一定の金額で乗れます(日本と違い、目的地までの距離で料金が変動しません)。ただし、マルシュルートカは公営のものではなく割高なので、口頭で目的地や降りたい場所を告げたりと、ある程度ロシアに慣れてから使うと良いと思います。駅にはこれらの全ての交通機関でつかえる、カルタチカというPASMOの様なチャージ式のカードが売っているので、あるととても便利です。

 ホームステイ先では、一人のロシア人女性と二人で暮らしていました。この女性は長年ホームステイの受け入れ先として多くの留学生と接していた経験があり、とても過ごしやすかったです。英語が通じる方だったので、どうしても分らないことは英語で話すこともあったのですが、できるだけロシア語で話すように心がけました。何か言いたいことがあれば辞書でわからない単語を引いて覚えて、ロシア語で伝えようとするだけで、ロシア語でコミュニケーションを取る練習にもなります。ここで私は朝と晩2回の食事をとらせてもらっていたので、7時までに帰宅するという約束をしていました。普段からもう少し遅くまで出歩きたかったり、時間の制約が無い方が良いと考える人は、ホームステイではなく寮やドミトリーなど、ある程度自由がきくところへ行くといいかもしれません。ただ、大学だけでなく家に帰ってもロシア語で何かを必ず話しているということは、限りある時間の中でロシアで学ぶには良い環境であったと思います。ご飯はロシアの家庭料理を出してもらい、ペリメニやサリャンカ(スープ)、マカロニやカーシャ(おかゆの様なもの)がおいしかったです。

ステイ先でのご飯。サリャンカとマカロニ、サラダ。たいていいつも、スープとマカロニかお米、メインの食事で魚や鶏肉の料理を出してもらっていました。
ステイ先でのご飯。サリャンカとマカロニ、サラダ。たいていいつも、スープとマカロニかお米、メインの食事で魚や鶏肉の料理を出してもらっていました。
ロシアのアイスは、とてもおいしいです!
ロシアのアイスは、とてもおいしいです!

 治安は思ったよりも悪くはなかったのですが、これは十分に気を付けたうえで、危険な場所や人気のない時間帯を避けていたからだと思います。私はスリや荷物を取られるといった事はなかったのですが、ペテルブルグのマクドナルドで何人も荷物を盗まれたり、ガレリアという大きなショッピングモールの近くで物を取られたりした、という話はよく聞きます。門限があったので夜は出歩いていなかったのですが、同じクラスのイタリア人の女の子たちは、夜になると変な人に話しかけられたりするから必ず二人で出歩いている、と言っていました。財布は、お土産を買うなど、使う予定があるときは長財布をカバンの一番下に入れて持っていきましたが、防犯のために普段は小銭入れに多くても1000ルーブルだけを入れていました(交通費を抜けば500前後でも良いと思います)。

 ロシアに留学するにあたって必要なことは、「必ずパスポートかそのコピーを携帯する」、「少額でも必ずルーブルを持っていく」、「日本でガイドブックを買ったうえで、ロシアで交通機関などが載っている地図を買う」です。ロシアではパスポートの携帯が義務となっています。ルーブルは円両替の場合、空港や大きな銀行でないと両替ができなかったりするので、ある程度は携帯した方が良いです。ただ、ロシアで円両替をするとレートが悪いので、現地両替の場合はドルかユーロ、クレジットカードを持っていくべきでしょう。また、クレジットカードでお金を引き出す場合は、スキミング防止のために空港や銀行、学校の中など、信頼できる場所以外で使わないようにすべきです。ロシアの地図は、地下鉄やトロリーバスなどの公共交通機関やマルシュルートカの路線が書かれているものがあります。日本のガイドブックは細かく書いているわけではないので、地図は観光地で無料で配っているところか、本屋で手に入れるといいでしょう。

 私にとってこの留学は、自分の知らない知識や価値観を多く見つけることができ、視野の広がる良いものでした。日本にいるだけでは体験できないことをしたり、ロシアで学ぶことで、今までとは違った方向から語学の学習ができることにも気付きました。場所を問わず留学をする時は必ずといっていいほど困ることやトラブルが何かと起きるのですが、命や身の危険にさらされるようなこと、金銭面などのトラブルを避ける努力さえすれば、たいていのことはなんとかなります。安全に配慮しながら楽しむことで、充実した留学生活が送れるのではないかと思います。

夏の庭園。一番最後に行った観光地でした。
夏の庭園。一番最後に行った観光地でした。

ロシア留学体験記(モスクワ)

        法学部2年 土田琴美

 私の場合、今回の留学は本当に何もかもが突然でした。

 突然、モスクワの語学大学に一ヶ月留学できるというお話をいただき、急いで先生のお力を借りながら申し込み(4日で決断。今思うとその度胸はどこから!?)、慌てて人生初のパスポートの手配をして、その後早急に合格通知が出て、いきなりロシア大使館で顔合わせがあって、それから焦りながら留学準備をして、いつの間にか当日成田空港に………。

 時間があっという間に過ぎていったのを、よく覚えています。あっという間故に、ロシアに憧憬の目を向ける暇すらありませんでした。

 今回の留学自体も息巻いて応募したわけでもなく、全て成り行きだった、というのが事実です。

 私の背中を押した一番の要素は金銭面でした。今回の留学プログラムは、授業費及び滞在費(生活費は除く)をロシア側が持ってくれるという、非常にお手頃なものだったからです。飛行機代も集団留学なので格安でした。


 8月末、日本時間の夜9時半に日本を発ち、アブダビ(アラブ首長国連邦)を経由して私はついにモスクワに降り立ちました。

 モスクワに到着してからクラス分けがあるまでの2~3日は、主に普通に生活できる態勢を整えるのに充てられました。

 留学中は、大学附属の寮で5人のルームメイトと共同生活を送りました。部屋は2人部屋と3人部屋と分かれており、私は成田で知り合った大学4年生の頼れるお姉さんと2人部屋になりました。3人部屋の方にはS大から来た、私と同学年のロシア語専攻の女の子たちがいました。彼女たちは弾けるように明るかったです。

 授業が始まる前は、彼女たちと協力しながら(というより、知り合いが誰もいなかった私は全面的に頼りながら)、手持ちの紙幣をルーブルに両替したり、調度品や食料を買いました。

 ロシアの調度品は、良く言えばシンプル、悪く言えば原始的なものが多く、その極端さが非常に面白くて、すぐに愛着が湧きました。


大学の外観。キリル文字で飾られた正門や大学までの道が可愛らしい。
大学の外観。キリル文字で飾られた正門や大学までの道が可愛らしい。
寮内部。共同キッチンは交流の場でもありました。
寮内部。共同キッチンは交流の場でもありました。

 ペーパーテストと面接のクラス分けテストの後、私は運良く真ん中のクラスに入れていただけました。クラスメートは全員日本人です。

 授業は週4回、朝9時半から90分授業が3コマで、宿題も毎日出ます。なかなかハードでした。

時間割。水曜2限は発音矯正。
時間割。水曜2限は発音矯正。
課題の一つ。カジノのオーナーになって人を雇います。
課題の一つ。カジノのオーナーになって人を雇います。

 私たちの担任はナターリヤ先生という若い女性なのでしたが、まさに日本人が描くTHE・ロシア人というような方でした。キラキラ光る長い金髪、麗しい顔立ち、高い鼻、周りの視線を釘付けにするような体つき……。突然目の前に現れたロシア人美女に、私は初っ端から度肝を抜かれます。

 しかしそんなナターリヤ先生、いきなり友だちに会いに2週間旅行に行ってしまいました。その自由さにまた度肝を抜かれます。

 先生の代わりに来たのは、友だちのダリア先生です。

 ダリア先生はナターリヤ先生より更に若い、スレンダーで頭に乗せたサングラスがトレードマークの、大変可愛らしい先生です。また、先生は驚くことにアジアの文化に非常に興味を持たれていて、日本語も多少読み書きができ、例文にもКимоно(着物)など私たちと縁の深いものを使ってくださったりしました。それから日本からロシアに輸入された言葉も教えてくださりました。


 私のクラスは真ん中でしたから、基礎文法ができてるのを前提で、楽しみながらロシア語を勉強しよう!という感じで、授業もロールプレイを多く取り入れたりして、なかなか活動的でした。

 授業の説明及び会話は基本ロシア語、細かい話は英語を交えて、という具合でした。周囲も片言ながら積極的にロシア語を喋るように努めていたので、教室内の雰囲気も意欲に溢れていて大変良かったです。

 当初はついていくのに必死で、この先大丈夫かしらと悩み、専修大の先生に相談までしてましたが、とりあえずこのクラスに留まっていたら次第に慣れてきて、終わりの頃にはここのクラスで良かった、踏み留まって良かったと思うほどでした。


 食事は朝と昼は黒パン、晩は自炊でした。

 食材は主に根っこ系の野菜が驚くほど安かったです(ジャガイモ1kg-17ルーブル(当時では約51円くらい?)など)。調理器具及び調味料類はАшан(アシャン)という大変便利な大型スーパーで揃えました。

 私は毎日最寄りのスーパー(片道30分!)まで行って食材や飲料水を買っていましたが、この時はいつも街の人々に溶け込めてる気がして、とても楽しかったです。飲料水は5Lのものが売られていて、それを飲用と調理用に使っていました。

 それから、ここにいると甘いものへのタガが外れるのか、1ヶ月でジャム瓶3本と蜂蜜瓶2本を空けました。ロシアはジャムや蜂蜜が日本のそれより遥かに安く、いつも買ってしまうのです。そして黒パンに付けたりロシアンティーに使ったりして、あっという間に空にしてしまうのです。

 お酒は生まれてこの方一口も口にしたことがなかったので、やりませんでした。ウォッカが飲めたら美味しかったろうなあ、と、年上の方が羨ましかったです。


大学の自販機で買ったお菓子。右手はワサビ味!!
大学の自販機で買ったお菓子。右手はワサビ味!!
マシュマロ?をチョコレートでコーティングしたお菓子。
マシュマロ?をチョコレートでコーティングしたお菓子。
日本米。売ってました。
日本米。売ってました。

 交通機関は地下鉄(метро/メトロ)、バス、トロリーバス、路面電車があり、私は前者2つをよく利用してました。モスクワには上記の乗り物全てで使える、Тройка(トロイカ)という東京でいうSuicaのような回数チャージ式カードがあったので、それを使って乗り物に乗っていました。国営故に値段は安く、かつどこに行っても(回数式なので)一律だったので、お財布にはとても優しかったです。

Тройка あると便利です。
Тройка あると便利です。
Тройкаがないと、延々とこれが量産されていきます。
Тройкаがないと、延々とこれが量産されていきます。
トロリーバス。これと路面電車に乗りたかったのですが、乗る用事がなかったので断念。
トロリーバス。これと路面電車に乗りたかったのですが、乗る用事がなかったので断念。

 ロシアは交通渋滞がひどいので、バスに乗って運悪く巻き込まれると、なかなか目的地に辿り着けません。反面、地下鉄はかなりの頻度で来るので、とても便利でした。が、揺れと走行時・ドアの開閉時の騒音が玉に瑕でした。(何故かロシアの地下鉄動画が動画サイトにアップロードされているので、気になる方はご覧になってください。怖いものは映ってませんからご安心を)


 私はこの一ヶ月、モスクワに「暮らして」いました。

 どこかに行ってこういう体験をしたというアクティブなことは少なかったですが、そういうのは今後のロシア旅行に譲り、今回はモスクワでの穏やかな生活を思う存分味わいました。(特筆できることといえば、ロシア人ペンパルに会ったこと、友人にサーカスに連れて行ってもらえたことです。)

 毎日街の人々に混じりスーパーで夕飯の食材を品定めしたり、先生に教えていただいたお気に入りのお店でご飯を食べたり、天気の良い放課後や休日は地下鉄で赤の広場まで行き気が済むまで散歩したり、ネットで穴場のお菓子屋を見つけて実際に街を練り歩いて探したり……「暮らしている」からこそできる、時間の制約に囚われないことをたくさんしました。

 特にお気に入りのお店には毎日授業後に欠かさず通っていたので、店員さんには顔どころか(いつも決まったものを頼んでいたので)注文するものまで全て覚えられていました。

専修大の先生と一緒に食事をさせていただいたтеремок(テレモーク)。ハマりすぎて毎日通いました。ブリヌイとモルスが大好きでした。
専修大の先生と一緒に食事をさせていただいたтеремок(テレモーク)。ハマりすぎて毎日通いました。ブリヌイとモルスが大好きでした。
университет(ウニベルシチェート)駅付近であったサーカス。むせ返るほどの熱気と身体に響く迫力の音響。
университет(ウニベルシチェート)駅付近であったサーカス。むせ返るほどの熱気と身体に響く迫力の音響。

 この生活の中で私が実感したのは、ロシア人の優しさです。渡航前から先生にロシア人は何があっても絶対に助けてくれるから…と言われていましたが、それは本当でした。

 彼らはいつも私が、スーパーで、バスで、道端で、メトロの傍で、地図とにらめっこしていたりオロオロしていた時は必ず手を差し伸べてくれました。

 留学中特にロシア人の親切さを味わったのは、バスを乗り違えて全く知らない土地に行ってしまった時です。

 バスの中で私が乗り換えるべき路線を教えてくれたおばさん(そしてその為に「この東洋人をどう元の巣に返すか」緊急車内会議を開いた周囲のおばさんたち)、携帯で私の辿るべき帰路を調べてくれたお兄さん、そして疲れ果てて車内で半べそかいていた私に「私たちも今からそこに行くの。一緒に行きましょう」と優しく声をかけてくれた天使のような女子高生たち……。

 よっぽど私の顔に悲壮感が漂っていたのかもしれませんが、この年齢も性別も隔たらない優しさには感動するばかりです。

 自分が彼らのような立場だったら臆することなく声をかけられるか?というと、なかなかできないはずです。

友人と行ったカロメンスカヤ公園にて。行く途中に何かとハンサムロシア人たちが助けてくれました。
友人と行ったカロメンスカヤ公園にて。行く途中に何かとハンサムロシア人たちが助けてくれました。

 治安の方は、自分が思う最低限の身構えしかしていませんでしたが、何の害も与えられませんでした。

 ただ窃盗がたまにあると聞いていたので、

①常に必要な金額しか持ち歩かない

②バッグはショルダーバッグ(荷物が自分の死角に行きづらいから)

③バッグ以外のところに貴重品は入れない(ズボンのポケットとか)

④携帯をいじりながら等、何かをしながら出歩かない

という最低限の対策をしていました。

 実際、寮に滞在していた日本人何人かは、携帯をスられたようです。

 あと、パスポートと滞在証明書(私の場合は学生証)の携帯は必須です。これら不携帯だと、いざという時に警察とゴタゴタします。

 それくらいしか身構えしてませんでしたが、1ヶ月の間、特にロシア人に嫌なことはされず平和でした。


 ロシアに留学する際に必要なものは、

①到着してから1日2日の食事が買えるくらいのルーブル

②薬

③事前の勉強

だと思います。

 私はドルしか持っていかなかったので、初日は食事にありつけず、かなり困りました。

 薬はかなり当たり前ですが、留学の際は常備薬だけでなく風邪薬とか胃腸薬とか、持っていけるものは持っていった方が安心できます。(体調不良の諸症状をロシア語で説明できる方、ロシアの薬でも耐えられる方なら、心配ないと思いますが…)

 あとは当たり前ですが、勉強・知識です。事前に可能な限り勉強しておくべきです。着いてからやるでは遅いと思います。


 それから、個人的に留学中あって楽しかったものも紹介しておきます。

①ラジオ ②日記 の2点です。

 ラジオは部屋にいる間もロシア語をたくさん耳にできるし、ロシアンポップスにも触れられるしで、一石二鳥です。

 日記は帰国して見返した時に満足感が得られます。手書きがオススメです。


 価値観が変わる、という大層なことは、残念ながら一ヶ月では起きませんでした。

 でもその代わり、私はロシアのことがますます好きになりました。不思議で、お節介で、優しい国と人々がとても愛おしく思えました。これはとても大きな収穫だったと思います。

彼らともっと話ができたら、彼らのことがもっと理解できたら、という願望は、語学勉強のモチベーション向上にも繋がりました。また、実際にネイティブスピーカー相手に自分のロシア語を話して、何らかの意思疎通が取れた時に覚える、「おおっ!通じた!!」という喜びは癖になるものがあります。

 あと、ロシア語を一緒に学ぶ友人が専修大の外でできたのは、本当に嬉しかったです。授業や寮でロシア語について話し合う時間は、とても楽しいものでした。

 それからかなり率直ですが、人間どこでも生きていけるな、という潜在的なサバイバル能力(?)を自覚しました。これは案外、自分を強く成長させてくれます。


 最低限、せめて『ここは日本じゃない』と多少の警戒心を持って過ごせば、トラブルは回避できると思います。

 あとは、失敗と恥を恐れなければ良いと思われます。

 留学が徒労の記憶に終わるか、輝かしい思い出になるかは、自分の心持ち次第です。

お土産はロシア語吹き替えのDVDと本を主に。この他にも5~6本買いました。
お土産はロシア語吹き替えのDVDと本を主に。この他にも5~6本買いました。
モスクワといえばやはりコレ。聖ヴァシーリー聖堂。晴れた日に来ると、本当に良い気持ちになります。
モスクワといえばやはりコレ。聖ヴァシーリー聖堂。晴れた日に来ると、本当に良い気持ちになります。

 最後に、私にこの留学の話を下さり、かつ現地でもメールでも何度も励まして下さったT先生に、この場を借りてお礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

ロシア留学体験記(中央アジア+カリーニングラード)

        経済学部4年 橋本和樹

1.中央アジア旅行記
 私がロシアに留学しようと思ったのは、大学3年生の夏休みに行った中央アジアでの旅行がきっかけでした。中央アジア旅行の目的は「イスラム建築と歴史を知り、山岳部に暮らす現地人の生活を見る」といったものでした。
 とはいえ、ウズベキスタンやカザフスタンへの航空便は直通便があるとはいえかなり高額なもので、貧乏学生の私にとってはなかなか選択し難いものでした。そこで自分が考えたのが「中国の烏魯木斉からカザフスタンのアルマトイに国際バスで行く」といったルートで、このルートだとおよそ2万円の節約になりました。結局、このルートを自分は選択し、第一目的地である中国へと重いバックパックを背負いながら1人向かうことになったのです。
 烏魯木斉の街は実に近代的な街で、道路も舗装され、近代的な高層ビルが多く立ち並んでいました。しかし、その中にも伝統や地域性が垣間見え、バザールではウイグル人がドライフルーツやナンを大きな声で売り歩き、イスラム教のモスクでは多くの人が礼拝をしていました。その後、ちょっと郊外にまで足を伸ばしてメロンが有名なハミやブドウや西遊記の舞台で有名なトゥルパンにも行ってみました。新疆ウイグル自治区の街に共通して見られるのは空気が乾燥していて気温が40℃前後ある点で、昼間に営業している店が非常に少ないです。私の場合、仕方がないから露店で売っている一個100円くらいのスイカやメロンを買って喉の渇きを癒していましたが、現地の人もそうしているのでしょうか。そのことは今でも疑問ですが、夏場の炎天下の中での生活が現地の人たちにとって如何に厳しいものであるかを伺い知ることが出来ました。
 烏魯木斉-アルマトイ間の国際バスは週に三便で、500元(約7500円)で国際バス乗り場(なぜかバスターミナルの左脇の細い路地の奥にある)で荷物チェックを受けた後に買うことが出来ます。検査官はカザフスタン人でテンションが高く、ひたすら高いテンションで自前の「すべらない話」を披露し合って楽しんでいましたが、肝心の検査の業務にはそこまで熱心ではなく、テキトーでした。
 国際バスでの移動は27時間ほどかかり、心身共に疲れましたが、深夜にアルマトイに着いたために宿探しを余儀なくされました。結局、宿は高いし、治安は悪そうだし、ということで、国際バスで今度はキルギスのビシュケクに行くことにしました。しかし、この時点で30時間程、休むこともなく移動していたのであまり値段交渉もせずにバスを取り、車内でずっと寝ていました。旅行での一番の問題は「言葉」でした。この時点でロシア語の能力はゼロだったのでまさに身振り手振りで自分の意思を伝えるしかなく、色々と苦労しましたが、必死に伝えようとすると何か伝わるもので、現地でロシア語やカザフスタン語などを教えてもらい、少しずつ現地に馴染むことが出来ました。
 アルマトイからビシュケクへは8時間ほどかかり、そこから宿を見つけて休んでいました。驚いたのはキルギスを旅行している日本人や韓国人、そしてヨーロッパ人たちがとても多いことで、彼らは思い思いに登山やサイクリング、キャンプなどを楽しんでいました。また、キルギスは物価が非常に安く、宿泊費で一泊1000円程度、食事は一食200円程度で済ますことが出来ます。おまけに料理のクオリティーは非常に高く(ただし衛生的かどうかは別問題)、中央アジア料理である「ラグマン」や「シュルパ」、そして「プロフ」などをお値打ち価格で、しかもたらふく食べることが出来ました。また、遊牧民族であるキルギス人たちの生活に欠かせないのが馬や羊ですが、移動中には彼らが乗馬しながら羊を散歩させている様子などを観察することが出来ました。

 キルギスの後はタジキスタンのパミール高原へと向かいました。パミール高原に行くためには「パミール高原入域許可証」が必要なのですが、それは在ビシュケク・タジキスタン大使館で簡単に手に入りました。しかしネックなのはパミール高原を移動するための交通手段がほぼ無いことで、キルギスタンのオシュからツアーを組むか、ヒッチハイクで乗り継ぐかしかありませんでした。結局、私は前者を選択しましたが、後者を選ぶ日本人ツーリストも多い(彼らの多くは世界一周旅行をしているようなベテランツーリスト)ようです。しかし、概して中央アジアの国境検査官は汚職が多く、賄賂を要求してくる可能性が高いので、ヒッチハイクする場合には常にその危険性と隣合わせだと言うことを理解して欲しいです。

 

クムス(中央アジアの伝統的な馬乳酒)売りの子供たち(キルギス・タジキスタン国境)

 パミール高原は平均標高が4500メートルという世界で、普段私たちが日常生活ではまず見ることが出来ないような絶景の数々がそこにありました。人々もみな優しく、外国人である僕に対しても差別意識もなく接してくれました。しかし、トラブルもありました。ツアーの一環として登山をしていたのですが、ガイドの居ない中での登山だったので途中で道を見失い、8時間程山道をさまようというプチ遭難事故に遭いました。何とか民家に転がり込み、助けを求めることで事なきを得ましたが、あわや遭難して事故死している所でした。

 

標高5000mもあったので酸素の薄さに苦しめられたが、休憩しようとジープを出ると、息を飲むような美しい光景がそこにはあった(キルギス・タジキスタン国境)

 ウズベキスタンは「イスラム教の影響力」がより強く感じられる国で、イスラムの伝統建築物が立ち並び、手掘りの彫刻が入ったナイフがそこら中で売られています。しかし、乞食や物乞いが多いのが難点で、こちらが日本人だとわかると金銭を渡すまで離れません。時間が無い場合はさっさとお金を渡して逃げるべきでしょう。また、ウズベキスタンでは通貨のインフレが激しく、公定レートでは一ドルあたり2500ソム程度になっているのですが、実際にウズベキスタン人が使っているレートでは一ドル8000ソムでした。一ドル分を使うのに1000ソム札を8枚か、もっと酷い場合には100ソム札80枚を使わなければならないのでお金の管理が大変です。また、それだけウズベキスタンでは「ウズベキソム」への信用が低いので、闇両替商が事あるごとに両替を持ちかけてきます。ですので、彼らの提案には慎重に応対して、良いレートで両替するよう心掛けることが重要だと思いました。

 

土から作られたイチャンカラの城壁(ウズベキスタンのヒヴァ)

 

カラーン・ミナレット。夕日を背景にした尖塔が美しい(ウズベキスタンのブハラ)

 ということで、私は中央アジアでの旅行では多くのことに気づき、また、とりわけロシア語の魅力を発見することができました。「もっとロシア語を使って人と交流したい。」これが中央アジア旅行を終えてからの自分の率直な感想でした。ロシアでは一体どんな発見があり、一体どんな出会いが待っているのだろうか。こうした気持ちを抱えながら、4年生の夏にカリーニングラードでの二か月間のサマースクールに臨むことになったのです。